2023/3/9-3/19 夜を明かし日を暮らす 石垣市民会館・展示ホール
2023年3月9日より3月19日の会期で、念願でありました石垣市での初めての個展を開催いたします。時節柄、ご多用の中、足をお運びいただきありがとうございます。
3ヶ月分の生活費を用意して登野城のマンスリーマンションに滞在したのが1017年1月のことでした。それで自分を満足させる予定でした。
おともに連れてきた犬と同伴で働けるアルバイト先が見つかり、3ヶ月が半年になりました。電話の向こうの夫に、先に移住しているから後から来てほしいと言ったのはいつのことだったでしょう?
1年かけて親しい方々に別れを告げ、2018年6月、平得に犬と私が暮らすアパートを借りました。
いま、彼も来て、母も来て、新川で健やかに暮らしています。
移住にあたっては、美術館など、日常的に美術作品に触れる機会がないことに、多くの友人から心配の声も寄せられました。画材の購入もそのほとんどが船便になりますから、不便を感じることもしばしばです。
それでも、それを凌ぐ、私にとっての何かがここにはあります。陽の光とも空気とも、一言では言いきれない、生き物に必要な柔らかい湿り気のようなものです。
人間にとって必要なもので、ここに無いものがあれば、それは一緒に作っていけばいいと、気持ちの優しいおおらかな島の方々との暮らしの中で考えるようにもなりました。
そうして夜を明かし、日を暮らし、作品をつくり、毎年発表して来ました。
この島が描かせたものをようやく見ていただくことができます。
島と、島の方々への、感謝の気持ちが伝わりますように。
最後になりますが、個展開催にあたり、身に余るご支援とご協力を賜りました多くの方々に衷心より御礼申し上げます。
2023年3月9日
斉藤真起
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「思い遣ること」
現代芸術とは第一次世界大戦の最中、スイスのダダ、ドイツのバウハウス、ロシアの構成主義という異なる主張の協議の中で発見された。現代芸術は大量殺戮を繰り返す人類の根源を発見しようとする為、あらゆる権威を破棄し、作品を通じてちっぽけな個人を見つけようとする。戦場で武器を持たないどころか、裸で歩くようなものだ。 現代芸術は、特権的な技術を必要とせず、素材は高価ではなく日常的で、美術、デザイン、建築、音楽、文学、ダンスという分野も問わない。そのため現代芸術作品は、非常に難解であったり、徹底的に日常的であったりする。その作品を見続けると、金銭や権威を問題としない人間本来の姿が浮かび上がってくる。
人間の心とは美しいだけではなく、醜い部分も多くある。それどころか、美醜という価値判断は、時代と場所によって大きく変化する。正否も、同様である。現に我々は、そういう事態に直面している。現代芸術は人間の本質を見出そうとするので、美醜、正否も含む剥き出しの人間像を掘り起こしていく。
斉藤真起の作品は、現代芸術である。愛らしい人間や動物の描写に、イラスト的要素を感じることがあるかも知れない。しかし斉藤が描く生き物たちは、喜びと悲しみ、悲劇と喜劇、絶望と期待、加害と被害、苦悩と歓喜といった、様々な対称的である感情が混じり合いながらも一つになっているのである。 斉藤はまた、自己の内部と自己の外部の世界の閾しきいを乗り越え、外部を知ることによって、内部をより研ぎ澄ませていこうとしている。雨が降って嬉しい人もいれば、悲しいことを想い出す人もいる。総てを知れなくとも、思い遣やることは可能な筈だ。私は斉藤の作品に、それを感じる。
(宮田徹也|日本近代美術思想史研究)
現代芸術とは第一次世界大戦の最中、スイスのダダ、ドイツのバウハウス、ロシアの構成主義という異なる主張の協議の中で発見された。現代芸術は大量殺戮を繰り返す人類の根源を発見しようとする為、あらゆる権威を破棄し、作品を通じてちっぽけな個人を見つけようとする。戦場で武器を持たないどころか、裸で歩くようなものだ。 現代芸術は、特権的な技術を必要とせず、素材は高価ではなく日常的で、美術、デザイン、建築、音楽、文学、ダンスという分野も問わない。そのため現代芸術作品は、非常に難解であったり、徹底的に日常的であったりする。その作品を見続けると、金銭や権威を問題としない人間本来の姿が浮かび上がってくる。
人間の心とは美しいだけではなく、醜い部分も多くある。それどころか、美醜という価値判断は、時代と場所によって大きく変化する。正否も、同様である。現に我々は、そういう事態に直面している。現代芸術は人間の本質を見出そうとするので、美醜、正否も含む剥き出しの人間像を掘り起こしていく。
斉藤真起の作品は、現代芸術である。愛らしい人間や動物の描写に、イラスト的要素を感じることがあるかも知れない。しかし斉藤が描く生き物たちは、喜びと悲しみ、悲劇と喜劇、絶望と期待、加害と被害、苦悩と歓喜といった、様々な対称的である感情が混じり合いながらも一つになっているのである。 斉藤はまた、自己の内部と自己の外部の世界の閾しきいを乗り越え、外部を知ることによって、内部をより研ぎ澄ませていこうとしている。雨が降って嬉しい人もいれば、悲しいことを想い出す人もいる。総てを知れなくとも、思い遣やることは可能な筈だ。私は斉藤の作品に、それを感じる。
(宮田徹也|日本近代美術思想史研究)
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